将棋の指し方をひとつも知らないうちに、私は祖父の将棋盤の上で何度も王将になりました。歩から始めて、ひと回りするごとに香車、桂馬、銀将と格が上がっていく。駒がどう動くのかは知らなくても、出世の順番だけは九九より先に覚えていた気がします。
お盆に親戚が集まると、祖父は床の間の脇から脚つきの盤を引っぱり出してきました。金将を四枚、両手のひらで包んでしゃかしゃかと振り、盤の上にぱらりと落とす。表が三枚なら三マス、横に立てば五マス。いとこ四人で盤を囲むと、茶の間はたちまち競馬場のような騒ぎになりました。
一度だけ、金将がまっすぐ逆さに立ったことがあります。百マス進める大当たりです。いとこたちが畳を叩いて騒ぎ、祖父は老眼鏡をずらして盤をのぞきこむと、しばらく黙ってから、こりゃ大出世だ、とだけ言いました。
回り将棋は、将棋盤と駒だけで遊べるすごろくです。金将をさいころの代わりに振り、出た目の数だけ自分の駒を盤のふちに沿って進めていく。ルールは数分で覚えられ、勝負の行方はほとんど金将の転がり方しだい。将棋の強い祖父でも、五歳の孫にあっさり負けることがあります。
会社では出世の階段を何度も踏みはずしてきた五十代の私も、盤の上ではいまだに、金将の気まぐれひとつで部長にも社長にもなれます。押し入れの奥に将棋盤が眠っている家なら、今日のうちに家族の出世レースを始められます。
回り将棋とは、将棋盤をすごろくの道に変える伝承遊び
千年近く前から伝わる駒を、さいころにして振る
将棋のルーツは古代インドの遊びにあるとされ、日本には奈良時代から平安時代のあいだに伝わったと言われます。奈良の興福寺の旧境内からは11世紀中ごろの駒が出土していて、同じ11世紀に藤原明衡が書いた新猿楽記には、将棋が技芸のひとつとして登場します。鳥獣戯画には、紙の盤で将棋を指している絵まであります。
盤のほうは、駒よりずっと見つかりにくいものです。2010年、島根県出雲市の高浜Ⅰ遺跡で、15世紀中ごろから16世紀初めのものとみられる将棋盤が出土しました。残っていたのは盤の4分の1にあたる板2枚だけで、赤外線を当てると、墨で引いたマス目がくっきり浮かび上がったといいます。駒は全国のおよそ100の遺跡から500点以上が見つかっているのに、盤の出土例はほかに東京の溜池遺跡から出た江戸後期の1例しかありません。正倉院にも、囲碁盤と双六盤は納められていながら、将棋盤はないそうです。
今の将棋の形が整ったのは、室町時代の終わりから江戸時代にかけてとされます。その盤と駒を、すごろくの道具に見立てたのが回り将棋です。生まれた時期や場所を書き記した資料には、たどり着けませんでした。呼び名もルールも土地によって違い、ふまわり、すごろく将棋、出世将棋と呼ぶところもあります。
昭和の茶の間で回った、祖父の家の出世すごろく
祖父の盤は、指す相手がいないまま、もっぱら回り将棋の盤として働いていました。将棋を指せる大人がいなくても、盤と駒さえあれば子どもだけで遊べる。雨で外に出られない日も、親戚が集まった夜も、出番はいくらでもありました。雨の日の昭和の遊びといえば、私の場合はまずこれです。
振る前には、両手で包んだ金将に息を吹きかける子もいれば、天井に向かって拝む子もいました。誰かの金将が盤のふちぎりぎりで止まると、全員が首を伸ばして息を止める。あと一センチで落ち駒という場面の静けさは、今思い出しても背中がむずむずします。
祖父の家のやり方では、銀将のあとも角行、飛車と出世が続き、王将で一周すると上がりでした。金将はさいころ役なので、出世の列には並びません。いとこの家では銀将で上がりにしていたらしく、顔を合わせるたびに、どちらが本当の決まりかで小さな言い合いが起きました。家ごとに決まりが違うのは、この遊びではごく当たり前のことです。
自分の駒の見分け方も、家のしきたりでした。祖父の家では、駒の頭を自分の座る側へ向けて置きます。勢いあまって盤から飛び出した金将は、畳を転がって座卓の下へ消えていく。這いつくばって探すのは、たいてい振った本人でした。
道具は盤と駒だけ、遊ぶのは2人から4人
用意するのは将棋盤と駒だけです。遊べるのは2人から4人。それぞれが歩を1枚ずつ自分の駒にして、金将4枚をさいころに使います。金将は裏に何も書かれていない駒なので、表か裏かがひと目で分かります。盤は布やビニールの折りたためるものでも、板の盤でもかまいません。将棋の駒はひと組40枚あるので、使わない駒は箱へ戻しておくと、あとで数が合わなくなる心配が減ります。
駒もプラスチックでも木でもかまいません。対局用の高級な駒にはツゲが使われ、産地としては山形県の天童が知られています。もっとも回り将棋に限っていえば、子どもが握りしめても惜しくない手ごろな駒のほうが、気がねなく振れます。
金将を振る場所は、テーブルの上にするか盤の上にするかを、始める前に決めておきます。最初から床や畳に盤を置いて、そこへ振る遊び方もあります。慣れないうちは、ルールを紙に書き出して盤の脇に置いておくと、もめごとが減ります。
回り将棋のルール、金将の振り方と点数の数え方
ここで紹介するのは、ある将棋の会が実際に使っているルールです。駒が進む道は、盤のいちばん外側のマスだけ。9マス四方の盤なら、外周はぐるりと32マスあり、隅から次の隅までは8マスです。
駒を隅に置いて、最初の一振りまで
- じゃんけんで振る順番を決める。
- 各自が歩を1枚取り、盤の隅に置く。2人で遊ぶときは、対角線上の隅どうしに置く。
- 自分の番が来たら、金将4枚を両手で包んで振り、盤の上に落とす。
- 出目を数え、自分の駒を時計の針と反対回りに進める。
- 一周して自分の隅まで戻ったら、駒を一つ上の格に取りかえる。
金将4枚の出目の読み方
- 表が出たら、その枚数だけ進む。
- 横向きに立てば5マス、縦向きに立てば10マス。
- 逆さに立つ逆立ちは、一気に100マス。
- 4枚とも裏なら20マス。ただし、金将どうしが重なっていれば戻りになる。
- 金将が1枚でも重なったら、表の数だけ戻る。戻るのは隅までで、それより後ろへは下がらない。
- 裏が1枚もなければ、ご褒美にもう一度振れる。続けて出れば、そのたびに振り直せる。
- 盤やテーブルから落ちた金将は、進みも戻りもしない。
たとえば、表が3枚で残りの1枚が裏なら3マス。1枚が横向きに立ち、残りがすべて裏なら5マス。4枚とも裏で、どれも重なっていなければ20マスの大当たりです。表が4枚そろえば4マス進んだうえに、裏が1枚もないのでもう一度振れる。反対に、表が2枚出ていても、どこかで金将が重なっていれば2マス戻ります。振った直後は、立っている駒と重なっている駒がないかを最初に確かめるのがこつです。
裏が1枚もなければ振り直し、という決まりは、子どもには夢のような時間でした。三度続いたときの、いとこの得意げな顔を今でも覚えています。
出世と寝かしと2あがり、盤の上の人事異動
一周して自分の隅に戻るたびに、駒は歩から香車、桂馬、銀将へと出世していきます。銀将が一周したらゲームはおしまい。順位は格の高い順で、同じ格なら進んだマスの多いほうが上になります。
追い越しにも決まりがあります。自分より格下の駒を追い越したら、その駒をひっくり返して盤の内側へ寝かせる。これが寝かしです。香車に出世した私の駒が、まだ歩のいとこの駒を追い越せば、いとこの歩は盤の内側でごろりと横になります。隅にいる駒は寝かせられません。寝かされた駒は、誰かに追い越されると起き上がって元に戻れます。こちらは起こし。2人で遊ぶときは、寝かされたら1回休みで済ませます。会社でいえば窓際への異動と復帰で、盤の上の人事はなかなか忙しい。
同じマスに止まったら、格に関係なく両方の駒が2マス進む2あがり。下がってきて重なったときは数えません。自分の陣地ではない隅にちょうど止まれば、次の隅まで一気に飛べます。同期そろっての昇進と、思いがけない抜擢のようなものです。
いちばん盛り上がるのは戦です。進んできた駒が相手の駒と一直線に並んだら、進んできた側が戦を宣言できます。二人が往復を競い、先に戻ったほうの勝ち。後手も戻れば引き分けです。勝てば一つ出世でき、銀将が勝てばその場で上がり。戦のあいだ、関係のない人は手を止めて見守ります。
途中から加わる人は、そのとき参加している中でいちばん格の低い駒から始めます。祖父の家のように王将まで出世を続けるなら、角行と飛車のぶん、勝負はたっぷり長くなります。
金将を振る手と、盤まわりの約束
金将は手のひらで包んだまま、盤から少し上の高さで落とします。力まかせに投げると駒が跳ねて顔に当たりかねず、落ち駒になって進めなくもなる。小さな子が駒を口に入れないよう目を配り、遊び終えたら40枚そろっているか数えてから箱にしまいます。
脚つきの盤には重さがあります。名人戦などで使われる最高級のカヤの盤には、厚さおよそ20センチ、重さ20キロを超えるものもあるほどです。運ぶのは大人の役目にしておきましょう。床に落ちた駒は、踏まないうちに拾う。駒の角を足の裏で踏むと、思わず声が出るほど痛いものです。
回り将棋を令和アレンジで、出目の自由研究から大人の出世レースまで
祖父の茶の間の遊び方に、今の道具と知恵を少し足してみます。
子ども向けには、駒の名前を唱える出世ルール
出世するたびに、新しい駒の名前を声に出して読む決まりを加えてみてください。きょうしゃ、けいま、ぎんしょう。駒の字は大人でも読み違えるほど難しいので、駒箱のふたに読み仮名の付箋を貼っておくと、小さな子も自分で読めます。
幼い子が混じる日は、上がりを桂馬までにして勝負を短くします。字がまだ読めない子にも、出目を見る役なら務まります。裏は無地なので、表と裏の見分けは一瞬。立った駒を見つけたら大声で知らせる。それだけで、立派な審判です。
子ども会や学童の集まりなら、体育館の床に養生テープで9マス四方の外周を描き、子ども自身が駒になって歩く人間回り将棋もできます。金将は段ボールで大きく4枚作り、表に金将と書いて裏は無地のまま残しておく。両手で抱えて転がし、出た数だけ自分の足で進む。追い越された子がその場にしゃがむ寝かしは、ことのほか盛り上がります。
スマホで記録する金将の出目、確率の自由研究
金将4枚を100回振って、1枚ごとに表、裏、横、縦、逆さのどれが出たかを記録してみます。スマホで毎回盤を真上から撮っておけば、数え間違えても後から見直せます。表計算アプリに打ちこんでグラフにすると、横や縦に立つのがどれほど珍しいか、逆立ちがどれほどの奇跡かが数字で見えてくる。点数の決まりが本当に出にくさの順になっているのかを確かめれば、夏休みの自由研究がひとつ仕上がります。
逆立ちの瞬間を狙うなら、盤の横にスマホを置いてスロー撮影を回しっぱなしにしておきます。めったに出ないぶん、撮れたときの喜びは格別です。家のルールをタブレットで一枚の表にまとめ、家族のグループに送っておけば、正月に祖父母の家へ集まったときにも話が早い。
離れて暮らす祖父母とは、ビデオ通話越しに遊べます。盤と駒は孫の家に置き、祖父母の家では金将4枚だけを振ってもらう。画面に映った出目を読み上げてもらい、こちらの盤で駒を進めます。出目の読み違いをめぐって、画面の向こうとこちらで笑い合う時間まで含めて、ひとつの勝負です。
大人のレクリエーションは、二人一組の四人戦
将棋を指したことのない大人も楽しめるのが、回り将棋のいいところです。大人だけで遊ぶなら、4人そろえて戦の決まりも入れると、勝負に山場がいくつもできます。二人一組にして、一人が金将を振り、もう一人が駒を進める形にすると、相談の声が増えて座が温まる。高齢の人が多い集まりでも、座ったまま遊べるうえに、勝ち負けの大半は運が決めます。将棋の腕前の差を気にせず、同じ盤を囲めます。
職場の懇親会なら、誰かが出世したとき、隣の人が辞令を読み上げる決まりを一つ足してみてください。それだけで、出世のたびに盤のまわりで拍手が起きます。
SNS映えは、逆立ちの金将と出世の階段
いちばんの被写体は、逆さに立った金将です。盤すれすれの低い位置から撮ると、小さな駒が塔のように見えます。歩、香車、桂馬、銀将を左から階段状に並べた出世の一枚も、回り将棋らしい写真になる。古い盤の木目や祖父の老眼鏡を脇に添えれば、昭和の茶の間の空気まで写りこみます。投稿するときは盤と手もとだけを切り取れば、家族の顔を出さずにすみます。
回り将棋で身につく、数の感覚と駒の名前と負けっぷり
回り将棋に要るのは、家に一組あれば足りる盤と駒だけです。新しく買いそろえる物もなく、雨の日の茶の間でも帰省先の座敷でも、思い立った日に始められます。
1と5と10と100を足し引きする
金将を振るたびに、1、5、10、20、100という数を足したり引いたりしながら、駒の行き先を数えます。外周は32マスなので、逆立ちで100マス進めば、3周したうえにさらに4マス先まで行ける計算です。うちの子も、隅から次の隅までが8マスだと覚えてからは、指でたどる前に行き先を言い当てるようになりました。
駒の名前と格の順番が、将棋への入口になる
歩兵、香車、桂馬、銀将。出世のたびに駒を取りかえていると、駒の名前と字の形が自然に頭に入ります。出世の順番は、将棋で弱い駒から強い駒へ上がっていく並びとおおむね重なっていて、回り将棋で覚えた名前は、そのまま本将棋の入口になる。いつか駒の動かし方を教わる日が来たら、名前を知っているぶん、話はぐっと早く進みます。
盤の上を読む目と、そっと落とす手
金将が4枚とも盤に落ちた瞬間、子どもは一度にいくつものことを確かめなければなりません。表は何枚か、立っている駒はないか、どこかで重なっていないか、盤からはみ出していないか。立っているのが横向きか縦向きかで点数が倍も違うので、見る目はおのずと鋭くなります。
振る手のほうにも加減が要ります。強く投げれば落ち駒、弱すぎれば金将が重なりやすい。手のひらの中でほどよく混ぜて、低い位置からそっと離す。何十回も振るうちに、子どもの手つきは見違えるほど落ち着いてきます。
寝かされても起き上がる、負けとのつきあい方
回り将棋では、さっきまで先頭を走っていた駒が、次の番には裏返されて盤の内側に引っこんでいます。それでも誰かに追い越されれば、また起き上がれる。勝負の大半を運が決めるので、負けても腕前のせいにされず、子どもは負けを笑って受け流す練習ができます。
家ごとに決まりが違う遊びだから、始める前の相談も遊びのうちです。逆立ちの点数や上がりの駒を、みんなが納得するまで話し合って決める。子どもに決まりを一つ提案させると、その決まりだけは誰よりも本人がきっちり守ります。
雨の日は押し入れの将棋盤を出して、家族の出世レースを
次の雨の日は、押し入れから将棋盤を出してきてください。盤の隅に歩を1枚ずつ置き、金将4枚を両手で包んで振る。最初の一振りが終われば、あとは駒のほうが勝手に回りはじめます。学童保育や子ども会、老人会の集まりに盤を持ちこめば、将棋を指せない子どもと指せるお年寄りが、同じスタートラインに並べます。
祖父の盤は、いま私の家の押し入れにあります。この前、子どもが振った金将の一枚がほんの少しだけ立ちかけて、またぱたりと倒れました。辞令を出すのは、いつの時代も金将四枚です。
